福島県相馬市にて
漆澤でございます。
皆様、ゴールデンウィークは如何お過ごしになりましたでしょうか?
私は今回の東日本大震災で津波に飲みこまれ亡くなった義兄の四十九日法要のために福島県相馬市の「浜通り」に家内と二人で行ってまいりました。
29日の金曜日の朝9時に東京を出発して一路「浜通り」を目指しました。
常磐道が未だに原発の影響などで寸断されているため、東北自動車道から福島を目指しました。途中何台もの自衛隊の災害派遣トラックを横目に見ながら福島西インターで高速を下り、115号線を相馬市のほうに向かい西方向へ。結局「浜通り」近くのホテルに着いたのがすでに20時を回ったところでした。
震災による道路の亀裂と道路上に照明がない個所が途中幾つもあるために速度規制があり、普段なら6時間足らずで着く所を実に11時間を要してしまいました。
道中疲れを感じながらもまだ「浜通り」に着いて欲しくないと言う気持ちが私と家内の二人にあり、今回の震災で自宅を津波に流された義姉に何と声を掛けて良いか?その気持ちだけでいっぱいでした。
出迎えてくれた義姉は、私たちの気持ちを察してか常に明るく努めてくれました。
彼女は愚痴一つ言わず
「辛いのは、私たちだけじゃないから」
「遺体が見つかっただけでも本当にありがたいことだから」
「双葉町の人たちの捜索は、まだこれからだかね」
「わざわざ忙しいところ東京からありがとうね」
「明日は、早いから食事を済ませてお風呂に入って寝て下さいね」
私と家内はただただ、「お姉さん、ありがとう」としか言えませんでした。
次の朝、食事も早々に済ませると義姉が「自宅が有った場所までは車の乗り入れが許されているからどんな悲惨な状況か見てみて!」と声をかけてきました。
法要のためお寺に行く前に、以前自宅があった「浜通り」に向かいました。
未だに一部立ち入り禁止地区もありますが義兄の自宅のあった場所はその区域から外れていました。
家のあった場所へ向かう途中、まるで映画のロケ地にでも迷い込んでしまった錯覚に陥ってしまうような津波の爪痕が至る所にあり、今まで町だった場所は見る影もなく、只々茫然とするしかない状況です。付近は何キロにも渡って町を津波がひと呑みにして瓦礫と海水を含んだ泥で覆い尽くしていました。自宅があった場所には、周りの家も含め基礎のコンクリート部分だけを残し今までここに町が本当に存在してたのかえさえ想像できない光景が続いていました。
玄関があった場所、今はタイルのみが残されている
どこかの総理大臣が「被災地域の復興は、20年から30年は難しい」
などと口を滑らせていましたが、そんなことは被災者の方々が一番よく解っていてそれを口に出すことなく今の現状を理解して少しでも早い復興を信じて毎日を頑張っていのに!なんで日本の政治家は人の気持ちがわからない人間が多いのだと思うと怒りしか湧いてきません。
今、私は被災者の方々に「頑張ってください」とは言いません。
一つだけ言えるのは
「是非、今だけでも甘えてください」
と言ったところでしょうか。
より早い復興を信じて